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富山で遊ぼう。

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世界遺産:白川郷



岐阜県と富山県にまたがる「白川郷・五箇山の合掌造り集落(しらかわごう・ごかやまのがっしょうづくりしゅうらく)」、合掌造り家屋が険しい山間部の豪雪に耐え養蚕(ようさん)に利用するために工夫された独特な特徴をもつ建築物であること、その集落の自然景観が見事であることが評価され、1995年、文化遺産に登録されました 。

構成資産は、岐阜県大野郡白川村にある荻町集落、富山県南栃市にある菅沼集落と相倉集落。

登録地域は構成資産68ヘクタール、それを保護する緩衝地帯(バッファーゾーン)58, 873ヘクタール。

白川郷(しらかわごう)は、岐阜県内の荘川流域の呼称で、大野郡白川村と旧荘川村(現在は高山市)にあたる地域です。
五箇山(ごかやま)は、富山県内の庄川沿いにある5つの谷間(赤尾谷、上梨、下梨、小谷、利賀谷)の総称です。「五ヶ谷間」を音読して「ごかやま」と呼ばれるようになったと伝えられています。



白川村では、戦後のダム建設ブームで多くの合掌造り集落がダム底に水没、昭和40年代の高度経済成長時代には合掌造り家屋が村外に売却されたり近代的家屋に立て替えられました。
こうした開発優先の流れに対し、白川村は廃屋になった合掌造り家屋を昭和42年から移築保存を開始、昭和47年からは「白川郷合掌村」として公開してきました。荻町住民有志は昭和46年、白川郷荻町集落の自然環境を守る会を結成、合掌造り家屋の保存のため「売らない、貸さない、壊さない」という住民憲章を制定し合掌造り家屋と景観を保存してきました。



荻町集落は昭和51年(1976年)に、すでに国の史跡に指定されていた菅沼集落と相倉集落は平成6年(1994年)に、それぞれ「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、平成7年(1995年)のユネスコ世界遺産への登録につながりました。




上記の記事及び文献は下記サイトよりお借りしています。
http://heiwa-ga-ichiban.jp/sekai/sub/sub03.html#top
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高砂山願念坊祭

高砂山願念坊祭

日時:平成24年4月14日開催予定
場所:富山県富山市下大久保地内



祭りの歴史
 高砂願念坊祭は安永年間(1775)に誕生し、ここに231年の歴史を刻む曳山と、戦国時代(1578)から428年の伝統を維持する願念坊祭りからなる、大久保に伝わる民俗芸能です。
曳山は文久2年(1862)八尾から譲り受けた御車山のご神体の高砂(慰と姥)を祀り、曳山囃子には最勝時から習い継いだともいわれる京都調の楽譜が演奏されます。また願念坊願念坊踊りには石山合戦(旧大阪城跡)の際、越中の僧侶・信徒集が援助のため馳せ参じたところ、正親町天皇の勅命により和睦となった平和到来(戦争11年間)を喜んで踊ったのが始まりといわれる踊りです。
 大久保へは砺波地方からの開拓民によって伝えられ、長い大久保の歴史と共に現在の高砂山願念坊祭と化したものです。
 しかし、第二次世界大戦(1945)の前後を通じて曳山も踊りも唄も荒廃しきり、命危うしの時代もありましたが、昭和51年10月(1976)「ふるさとを思う心に二つなし」の合言葉によって、再起不能とされた高砂山願念坊祭に命が蘇りました。

曳山と願念坊祭り
 喜永5年5月(1852)下大久保用水開設と五穀豊穣を祈願して造営された八幡宮(新宮)へ奉納する春祭り行事として位置付けられ、高砂山の神の守護として願念坊踊りが御前踊りとなり、当時僧侶の衣姿で「素踊り」「手ぬぐい躍り「竹踊り」の三つか戦国時代の名残をくむ勇壮活発な活動をしない、歌舞伎の踊りとして踊られました。また曳山は当時、山本から出発して八幡宮に奉納され、次いで囃子に「登り山」を演じながら塩野ヶ原の守護神・天満宮(上大久保5区)に詣で、その後は「帰り山」囃子を優雅に演じながら、町内(旧飛騨街道)を練り巡り、夕暮れからちょうちん山として「十日恵比寿」などを演じながら真夜中に山元に納まりました。

高砂山願念坊祭復興
高砂山願念坊復興(1976)に際し、梅鉢法被と神子姿で踊る「御前踊り」と、お祭り法被と菖蒲姿で踊る「和踊り」が大きく二つに分かれて位置づきました。
「御前踊り」は昔ながらの踊りとして受け継がれいます。
一方「和踊り」は願念坊踊り本来の所以から、平和を象徴した歓喜の踊りとして大衆が円陣を描き、楽しく移動しながらリズミカルに踊ります。1977年に若柳吉忠吾先生(日本舞踊)によって振付されました。
 法被姿と神衣装はそれぞれわが郷土の歴史を物語るものです。
塩野ヶ原開拓時代の野良姿であり、梅鉢の紋は曳山に刻まれる加賀百万石の紋章から由来し、神子姿は高砂山の稚児舞であり、菖蒲姿は当時大沢野一面に咲き誇った「沢」の象徴である黄色菖蒲(帰化植物)から由来したものです。
踊り子のかさは、戦国武将の兜から由来した稚児舞の冠を意味しています。
 願念坊踊りの動作の中にみられる、百姓仕事の仕草や僧侶・信徒の拝む姿などは、長く苦しかった戦国の中から平和を念願する悲哀の表情として生まれ、日本史を物語るような先祖を偲ぶに値する貴重な踊りです。
 また、高砂山願念坊祭のすべてが先祖からの血と汗と涙で結ばれた貴重な文化遺産といえます。

富山山王さん 日枝神社

富山では結構有名な神社です。日枝神社春季例大祭であります山王まつりは、6月1日・2日を中心に行なわれ、近郷近在から約 20数万人の参拝者で賑う盛大な祭りであります。
この山王まつりは、そもそも旧藩時代から富山城下の総産土祭であり、城下あげての総祭りとして栄えてきました。
今も神社附近には、千数百の露店が軒を列ね、その間を神輿・獅子舞が力強い笛・太鼓を先頭に露店をかきわけて御還幸になる様子は山王まつりの偉観でありま す。




御由緒
旧記文献等の散逸消失により詳しくは知り得ないが、現在の記録によると最も早い年号は建武二年(1335年)で、その頃の記録によると、当神社は、越中国新川郡針原大野に鎮座、広壮な社殿・社地を備えていた。
 その後、戦乱を避けて御神体を奉じて、上新川郡大山町隠土、上新川郡中野村(現在の古宮)、婦負郡藤居村(現在の富山城跡)と御遷座された。
 天正八年越中国守佐々成政は、崇敬殊に篤く毎年四月の中の申の日を以って神事を執行した。

 天正十三年前田利長富山城に入城し、時の神主平尾宗円は神事を執行、神札を差し出したところ大いに喜ばれ、以後富山前田家の産土社とせられ、新たに社地を寄進し、本殿・拝殿・鳥居等を造営せしめ、同十六年四月一日遷座祭を斎行、毎年四月二十二日を例祭とし祭典料として正米十石供進のことが定められ、さらに神輿を寄進された。なお、御輿渡御の供奉として榊神馬二頭、長柄鎗十筋並びにお固め足軽等を附せられるとの恒例が定められた。なおまた、例祭には、当神社が鬼戸山に難をさけられた縁故により湯立釜の火焚きとして隠戸から二人を召された青銅壱貫を与えられた。

 承応二年二代藩主正甫公は、社殿の造替えを命じられ、同五年漸く完成し遷座祭が斎行され、神輿二基も寄進された。以後代々の藩主の崇敬篤く種々寄進のものがあったが、天保二年の火災に罹り悉く消失した。
 明治六年八月郷社に列し、氏子区域が定められ、その町数五十町・戸数五千二百余戸であった。
 明治八年九月天照大御神を奉斎の北神明社、並びに豊受大御神を奉斎の中神明社を当社相殿として合祀した。



 明治三十二年当神社境内に新県庁建設と旧富山城跡の公園化計画に際し、当神社が応安の昔、同地に鎮座せられた縁故をもって御奉遷され八月二日県社に昇格された。
 ところが、八月十二日市内全域大火(俗に熊安焼けという)にあい炎上、御神体の御安泰を得たほかは全く廃燼したため、同三十四年本殿・拝殿を現在の山王町に御復座された。
 昭和二十年八月一日戦災により全社殿その他建物の全てを消失したが、御神体は、本殿土壇の特設の防空壕に直前にお移しして被災を免れた。戦後は被災にあった本殿・拝殿・社務所等が氏子崇敬者の御浄財により次々とご復興され、神域は見違えるように旧に勝る威容を誇るに至った。
 なお、昭和四十三年には神社本庁の別表神社に加列された


富山山王さん:日枝神社
http://www.hie.jp/

富山城

富山城・富山市郷土博物館
富山市郷土博物館(富山城)は、昭和29年に戦災復興事業の完了を機に開催された、富山産業大博覧会の記念建築物として建設されました。3重4階建ての城郭を模した建物で、博覧会の会期中は「美の殿堂」として各種展覧会が開催され、終了後の同年11月、郷土博物館として開館しました。以来、半世紀にわたって郷土の歴史・文化を紹介する博物館として活動を行ってきました。平成15年からは、約2年半にわたって耐震改修工事およびディスプレイ整備を行い、同17年11月、中世以来の富山城の歴史を紹介する博物館としてリニューアルオープンしました。また、建設から50年目にあたる平成16年には、富山市のシンボルとして、戦災復興期を代表する建築物として、国の登録有形文化財に登録されています



歴史
富山城は、天文元年に水越勝重によって築かれ、後に勝重は神保長職と名を改めた。 その後神保氏が3代に渡って居城した。
 天正4年、越後春日山城主上杉謙信は富山城の神保氏を追い、家臣の小笠原長隆・上杉信定を置いた。 
 天正7年、織田信長は越前小丸城主佐々成政を富山54万石封じた。 成政は、城を改修し城下町の整備を行った。 その後成政は、信長の死後の後継者争いで反秀吉の立場をとるが、柴田勝家滅亡後、秀吉の軍門に降った。 天正15年の豊臣秀吉の九州征伐後、成政は肥後熊本城へ転封になった。
 慶長5年の関ヶ原の戦功により金沢城主前田利長は、加賀・能登・越中の3ヶ国120万石を得た。 慶長10年に利長は隠居して富山城に移るが、慶長14年に主要部の建物をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移った。
 寛永16年、3代前田利常は、次男利次に10万石を与えて分家させた。 利次は、廃城と化していた富山城を修復、寛文元年に入城して富山藩が成立した。 以後富山前田氏13代の居城として明治に至った。 


詳しくは
富山市郷土博物館
http://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/index.html

富山の街中移動はセントラム!

セントラム:

地域発展の起爆剤として期待される全国初の本格的LRT(2車体連接低床式路面電車)です。セントラムは、富山市が公共交通を軸としたコンパクトなまちづくりの実現に向け、2009年に市内電車の環状線化事業を目的として誕生しました。市内中心部の回遊性強化や公共交通活性化、中心市街地の活性化を目指しています。富山にきたら乗ってみられ~。

運行時間
始発時刻 富山駅前発 6:10(グランドプラザ前発 平日6:21 休日6:25)
最終時刻 富山駅前発 22:10(グランドプラザ前発 平日・休日22:24)
運行間隔 昼間帯 9:00~19:30…およそ10分間隔 そのほかの時間帯…およそ20分間隔



運賃
:全線均一料金 運賃は大人200円、小人100円



富山城とセントラム


詳しくは
富山市路面電車推進室
http://www.city.toyama.toyama.jp/toshiseibibu/romendenshasuishin/romendensha.html

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