富山では結構有名な神社です。日枝神社春季例大祭であります山王まつりは、6月1日・2日を中心に行なわれ、近郷近在から約 20数万人の参拝者で賑う盛大な祭りであります。
この山王まつりは、そもそも旧藩時代から
富山城下の総産土祭であり、城下あげての総祭りとして栄えてきました。
今も神社附近には、千数百の露店が軒を列ね、その間を神輿・獅子舞が力強い笛・太鼓を先頭に露店をかきわけて御還幸になる様子は山王まつりの偉観でありま す。
御由緒旧記文献等の散逸消失により詳しくは知り得ないが、現在の記録によると最も早い年号は建武二年(1335年)で、その頃の記録によると、当神社は、越中国新川郡針原大野に鎮座、広壮な社殿・社地を備えていた。
その後、戦乱を避けて御神体を奉じて、上新川郡大山町隠土、上新川郡中野村(現在の古宮)、婦負郡藤居村(現在の富山城跡)と
御遷座された。
天正八年越中国守佐々成政は、崇敬殊に篤く毎年四月の中の申の日を以って神事を執行した。
天正十三年
前田利長が
富山城に入城し、時の神主平尾宗円は神事を執行、神札を差し出したところ大いに喜ばれ、以後富山前田家の産土社とせられ、新たに社地を寄進し、本殿・拝殿・鳥居等を造営せしめ、同十六年四月一日遷座祭を斎行、毎年四月二十二日を例祭とし祭典料として正米十石供進のことが定められ、さらに神輿を寄進された。なお、御輿渡御の供奉として榊神馬二頭、長柄鎗十筋並びにお固め足軽等を附せられるとの恒例が定められた。なおまた、例祭には、当神社が鬼戸山に難をさけられた縁故により湯立釜の火焚きとして隠戸から二人を召された青銅壱貫を与えられた。
承応二年二代藩主正甫公は、社殿の造替えを命じられ、同五年漸く完成し遷座祭が斎行され、神輿二基も寄進された。以後代々の藩主の崇敬篤く種々寄進のものがあったが、天保二年の火災に罹り悉く消失した。
明治六年八月郷社に列し、氏子区域が定められ、その町数五十町・戸数五千二百余戸であった。
明治八年九月天照大御神を奉斎の北神明社、並びに豊受大御神を奉斎の中神明社を当社相殿として合祀した。

明治三十二年当神社境内に新県庁建設と旧富山城跡の公園化計画に際し、当神社が応安の昔、同地に鎮座せられた縁故をもって御奉遷され八月二日県社に昇格された。
ところが、八月十二日市内全域大火(俗に熊安焼けという)にあい炎上、御神体の御安泰を得たほかは全く廃燼したため、同三十四年本殿・拝殿を現在の山王町に御復座された。
昭和二十年八月一日戦災により全社殿その他建物の全てを消失したが、御神体は、本殿土壇の特設の防空壕に直前にお移しして被災を免れた。戦後は被災にあった本殿・拝殿・社務所等が氏子崇敬者の御浄財により次々とご復興され、神域は見違えるように旧に勝る威容を誇るに至った。
なお、
昭和四十三年には神社本庁の別表神社に加列された。
富山山王さん:日枝神社http://www.hie.jp/PR